僕の見た「大日本帝国」

僕の見た「大日本帝国」

僕の見た「大日本帝国」

サハリン(樺太)の南半分に台湾、韓国、北朝鮮ミクロネシア、中国の東北(満州)など。戦前・戦中のアジア太平洋地域概略図を見ると大日本帝国の領土がこんなに広かったとは驚かされる。

これらの、かつて大日本帝国だった土地を筆者が訪ねる本。

インプットしたこと
☆サハリンについて
・サハリンには日本語を話す朝鮮族の人々(ただし訛りはきつい。)がいて、鳥居までも残っている。

・サハリンには、稚内発のフェリーで行けるが、パスポートとロシアのビザが無いと入れない。

樺太・千島交換条約のあと、ロシアはサハリン全島を流刑植民地として利用していた。その後1989年まではソ連の極東軍事拠点で一切の外国人の立入は禁止されていた。

・筆者はサハリンで出会う人がほぼ日本語が通じることに驚いていた。
・サハリンに残された日本人の生活は、ロシアの秘密警察に目をつけられ面倒だった。
サハリンは今でも物騒。

☆台湾について
・まず沖縄県与那国島。戦前・戦中は与那国島の人々は、ここから110キロ~160キロの一番近い当時日本の大都市の台北など、台湾へ学校に仕事に船で出ていた。(台湾航路は1日の船便が5~6回あった。)
今、与那国島の人が台湾へ行くには、まず石垣島那覇に戻り、そこから船か飛行機になる。

・現在、石垣島から台湾の基隆までフェリーが出ている
→台湾は行ったことがあったがフェリーがこの航路を、結んでいたのは知らなかったな。

・ごちゃごちゃした建物、林立するビル群の隙間の漢字の看板、おびただしいスクーターの群れ、アジアの喧騒の中。セブンイレブンやスタバなどもある。コンビニの中には日本のお菓子も沢山売られている。吉野家三越、そごうもある。台湾の人々は親日的だ。「日本」があちこちで垣間見れる。日本語も通じたりもする。また、「日本統治時代」にこだわりをもち、当時のものを守っていこうとする人が現役で存在する。
→台湾には何回か行ったことがあるためリアルに想像できる。上記の記述はその通りだった。

・台湾にも神社跡や鳥居が数々残る

・台湾には3つも名前を持つ人がいる。日本統治時代の日本名、中国名、そして高砂族(原住民タイヤル族)の名。

・勤勉で正直、約束を守るといったことを台湾では「日本精神」と呼ぶ。

・台湾の離島の一つ、「蘭嶼島」に住む人はフィリピン北部の少数民族と通訳なしで話せ、正装はフンドシ。この島でも日本語が通じる。

☆韓国について
対馬から。対馬は古くから大陸との関係性が深い。江戸時代には対馬藩の大名、宗氏が幕府と李氏朝鮮の両方に仕えていた。朝鮮半島が日本の植民地だったときは、対馬から就職先を求めて釜山に行くのはもちろん、映画に、買い物に釜山を日帰り往復するが当たり前だった。
現在は韓国からの観光客に合わせた船便スケジュールの釜山からの船を待つと、対馬から行ける。釜山からの船か来るかどうかは韓国次第。悪天候などですぐキャンセルになるため、筆者は1週間粘って乗れた。対馬から釜山へは船で二時間半。近いのか遠いのか。

・韓国語は聞くと日本語の単語のようなものが聞こえてくる。ウドン、ワリバシ、タクアン、ヨウジ、ヒヤカシ(冷やかし)、ケイサン(計算)、オヤブン(親分)、ベントー(弁当)等

・瓦屋根の日本家屋もところどころあれば、ポン菓子を作る実演販売もある。

・筆者は試しに80代ぐらいのおじいさんに日本語で声をかけると、通じた。日本統治時代のことを話始めたが、発音が正確で非常に分かりやすい日本語だったそう。

・韓国は反日の意識が高い国だが、筆者は韓国人に韓国語で話しかけると、結構親切な対応を受けたそう。しかし日本統治時代の話を聞かせて、というとどうなるか。
日本統治時代の日本人街だった辺り。70代のおじいさんが何やら、ただならぬ雰囲気で詰め寄り筆者に話しかけてくる。勢いが止まらないが何を言っているのか?筆者は韓国語で「僕は日本人ですが」と言ってみた。すると勢いが更に増し、こめかみに血管が浮き、殴りかかってきそうな勢いになり話し方は絶叫になった。
日本のせいでどんなひどい目に合ったか、思いの丈を絶叫し続けた。その後落ち着き、涙をためて哀しそうにしていた。そしてまた思いの丈を語った。思いの丈をぶちまけてスッキリしたのか、「韓日友好!」と握手を求められた。

・韓国にも神社が74つあったが、ほとんどの神社が燃やされたり壊されたりしている。日本統治になる前からしっかり統治されていた韓国に無理矢理日本の統治が始まったので、台湾とは事情が異なる。筆者は巨済島にはまだ神社跡があるかも、とのことでその島の神社跡を訪ねたが、本殿はなく鳥居は折られチェーンソーのようなもので切り落とされているような跡があった。

・韓国には日本統治時代から今も、ラジオ体操と授業開始時の「気をつけ」、「礼」もある。

・筆者は日本からは行けない竹島へ、韓国のクルーズ船で行き、韓国人が竹島愛国心を表現するさまを見た。筆者は船上の800人全てが敵に見え、疎外感を感じ落ち込んだ。

北朝鮮について

・在日朝鮮人系の企画するツアーに参加したが、やはり観光するところも「北朝鮮が見せたい場所のみ」で事前にびっちり決められ、ガイド兼通訳の二人が常に張り付く中で巡ることになる。

・日本語堪能な通訳の30代の北朝鮮人に歴史や政治ことや他の場所に行ってみたいと言っても、黙りこむか、時間がないのでダメですと言われる。

・日本からおさがりと思われるパチンコ台、ボーリングレーンがあった。そして日本人旅行客が忘れていった乾電池などの品々を大切そうにケースに入れられ売られている場面も。

・人々の生活は田植えを手作業、道路を作るのも手作業、ブリキの粗末なお弁当箱を何人かが回して食べている様子、かなり食糧難だという様子が垣間見れた。どうしてそうなってしまったのか、歴史も書かれている。

☆旧満州国について(中国・大連など) 
・大連は歴史からしてロシアと日本が威信をかけて都市づくりをしたとあり、頑丈で威厳のある風格。

・中国人は実利的。統治時代の日本が作ったものでも政治的以外なものは使えるものは使おうという考え方。

・神社は壊されたが塔は日本人が酷いことをした「証拠」としてそのまま。

・戦時中、おびただしい犠牲のあった虐殺の地帯や万人坑という死体の捨て場とかが見学でき、そこには本物の人骨が類類と葬られもせず積み重ねられ展示用として使われている。その人骨を使って、この人はこう頭に穴を空けられた、とか説明されたりする。

・大連神社という神社は下関に再建された。

満州国だったところの果て、ノモンハンへ向かう旅の様子(ハイラルから阿木古郎を経由)

南洋群島について(ミクロネシアパラオ)など
パラオ、コラールの1931年の市街図には、「二見タクシー」「あづまや」「ギオン」「サクラ」「不二屋」といった、日本人商店街があった。

パラオは1943年25000人もの日本人とパラオ人6000人が住んでいた。終戦で全ての日本人は命令で日本に帰った。(現地の妻子を残して、というケースも。)
・今でも日本語の単語がそのまま使われていたりする。
・ナカムラとかナカモトとか日本名みたいな名前を持つ人も多い

・日本が引き上げたあと、変わりに統治したアメリカによって急速にアメリカ化した。

ペリリュー島ではアメリカとの戦いで一万を超える日本兵が亡くなった。今、ぺりりゅー神社という真新しい神社が島民の手により建てられている。

・チュークも日本人が30000人も住んでいて民家や店で埋め尽くされ、空き地が殆んど無い密集した地域だった。